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2013年、国産初の30分もの連続テレビアニメ「鉄腕アトム」が放送開始から50年を迎える。日本テレビアニメの象徴である「週1回30分テレビアニメ」を創始した本作は、日本テレビアニメ史上欠くことのできない業績を残した。そこで「鉄腕アトム」放送50周年を記念して、虫プロダクションが「鉄腕アトム」全193エピソードの中から厳選した10エピソードをHDリマスターして、テレビ初放送!

鉄腕アトム

  • 『鉄腕アトム』放送開始50周年記念特別番組
    「漫画の神様、日本テレビアニメ創造史」
    3/10(日)12:00〜
    再放送:3/10(日)14:30〜、14(木)6:30〜 他
    日本のテレビアニメ史において、『鉄腕アトム』とは何だったのか?
    2013年、国産初の30分モノ連続テレビアニメ『鉄腕アトム』が、放送開始から50年を迎える。以後アニメ発展の基礎を築き、日本テレビアニメ史上欠くことのできない業績を遺した『鉄腕アトム』を創った漫画の神様・手塚治虫は、どのようなきっかけでアニメに接近し、取り組もうとしたのだろうか?
    番組では手塚治虫の幼少期までさかのぼり、『鉄腕アトム』の誕生からその影響までを、インタビューを交えながら紐解いていく。

    鉄腕アトム HDリマスター版 セレクト放送3/10(日)12:30〜(#1〜2、9〜10)
    3/10(日)15:00〜(#16、21、37、179〜180、193)
    放送開始50周年の記念すべき年に、HDリマスター版で十万馬力の科学の子・鉄腕アトムが帰ってきた!
    科学省長官・天馬博士は、交通事故で死んだひとり息子・飛雄にそっくりのロボットを、科学省の総力を結集して作りあげる。だが人間のようには成長しないため、ロボットサーカスに売り飛ばされトビオは、「アトム」と名づけられ、新しく科学省長官になったお茶の水博士に引き取られることに。だが一度事件が起これば、アトムはその10万馬力のパワーで敢然と悪に立ち向かい退治していく。

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【特集コラム第2弾】すべては『鉄腕アトム』から始まった
〜漫画の神様による“連続テレビアニメーション”という発明〜

文:岩佐 陽一

漫画からアニメへ〜『鉄腕アトム』映像化史〜
 本邦、特に戦後漫画界において手塚治虫が“漫画の神様”と呼ばれることに異論を挟む方はいないことと思う。だが、日本製のアニメーション作品が“ジャパニメーション”との固有名詞となり世界中でもてはやされている現状を顧みるに、手塚治虫は“ジャパニメーションの神様”である気もするのだが、そう思うのは筆者だけだろうか?
 手塚の代表作と言われる『鉄腕アトム』は1952年、光文社の「少年」にて連載がスタート。直前まで“鉄人アトム”のタイトルで作業が進行していたが、“重っくるしい”との理由から“鉄腕”になったとか。後に古典ロボット漫画の『鉄人28号』(1956〜'66年)が同誌に連載されたことを考えるとちょっと面白い。この『鉄腕アトム』はテレビアニメ放送終了後の1968年まで長期連載されたが、『アトム』人気がピークに達したのは、やはり1963年にテレビアニメ化された瞬間だった。実はその前にも『アトム』は二度、テレビに登場している。最初(1957年)はなんと!“紙芝居”!! 当時、映画関係者がテレビの小さなブラウン管を揶揄して“電気紙芝居”と呼んでいたというから言い得て妙というか今では考えられないというか、とにかく“紙芝居方式”で放送され当時の制作者のみなさんには恐縮だが、原作者自身が“貧相な紙芝居”と呼んでいるくらいでそれほど話題にはならなかったようだ。次は松崎プロダクション(第一部のみ三笠プロダクションが共同)制作の実写特撮ドラマとして制作された(1959年)。こちらは子役(瀬川雅人)がコスチュームを着て演じ、登場ロボットや悪人たちもぬいぐるみや特殊メイクで表現された。こちらはヒットし約1年強放送されたが、それ以上の広がりは見せなかった。つまりブームにはならなかった。
 またもここで余談だが、『アトム』の前に手塚は『アトム大使』という漫画を「少年」に連載しており(1951年)、この作品ではアトムは主人公ではなく一脇役ロボットにすぎなかった。そのアトムを主役にしてリスタートさせたのは編集部の意向だったという。
漫画映画=アニメーションへの憧憬
 手塚は戦時中の少年時代、長編動画(アニメーション)『桃太郎 海の神兵』(1945年)を焼け残った松竹座で鑑て“一生に一本でもいい。どんなに苦労したって、おれの漫画映画をつくって、この感激を子供たちに伝えてやる”と誓った。このとき、手塚はまさか自分が一生に一本どころか多数の“漫画映画”を作ることになろうとは夢にも思わなかったことだろうが、とにかく少年・手塚治虫が子供時代に決意したのは“漫画家になること”ではなく“おれの漫画映画をつくって”、つまり“自分でアニメーションをつくること”だった。
 手塚が漫画を描くきっかけは、実は存外本人の口からは語られておらず、その源泉は小学生時代に描いた昆虫のスケッチにあると言われているが、定かではない。いずれにせよ漫画映画や昆虫、演劇、天文、そして落語に熱中していた手塚少年は並行して漫画も描き貯めていた。大学生時代に描き下ろし単行本『冒険漫画物語 新寶島』(1947年/原作・構成:酒井七馬)が発売されたことが転機となり、自他共に認める職業漫画家となる。その最中、上京した手塚は“漫画映画製作者募集”の張り紙を見て“発作的に、そのプロダクションへ飛びこんだ”。『新寶島』と二、三の赤本を見た所長はその場で手塚に不採用を言い渡した。曰く“一度、出版界の味をしめてしまうと、報酬その他、割がいいものだから、ケタ違いに不利な漫画映画など、とても作る気になれない。あきらめるんだな”。
アニメーター失格が拓いたアニメへの道
 大袈裟に言えば、この瞬間、ジャパニメーションの未来が決まった。
 ここで手塚が一アニメーターとしての道を歩まなかったことで後に幾多の傑作を生み、その財力で日本初の連続テレビアニメーションを制作。制作費や報酬自体は“ケタ違いに不利な”ものの、いわゆるキャラクターグッズを筆頭に関連商品=二次使用料で利潤を得るビジネススタイルを創案し、後に確立。それが世界中に広まり、“ジャパニメーション”として外貨を稼ぐまでに至った訳だ……と一気呵成に結論に達したが、ここで少々時代をプレイバックしよう。
東映動画嘱託社員としての手塚治虫
 アニメーターとしての道を閉ざされた手塚は……グッと間をスッ飛ばして、押しも押されぬ人気漫画家となった。そんな手塚を、諦めかけていたアニメーションの世界に誘ったのは東映動画(現・東映アニメーション)の渾大坊五郎と白川大作だった。それも手塚の原作『ぼくの孫悟空』(1952〜'59年)をアニメーション映画にしたいので協力してほしい……という願ってもないもの。一も二もなく引き受けた手塚はしかし、ここで巨大な組織の中では自身の望むアニメ制作のできぬこと、そしてアニメーターとしての自分の資質を知る。ビジネスとしてアニメーションを作るのではなく、自分が稼いだお金で、採算を度外視して作ることでしか自分の納得のいく作品を生み出すことのできぬ事実を痛感した。最初にアニメーションの世界から手塚を弾き飛ばした、件の所長の予見はここで見事に的中した。さらに面白いことに、手塚は後に東映動画と東映本社に多大な貢献を果たす“大いなる二つの遺産”を残して東映動画を去って行く。そのひとりが、『狼少年ケン』(1963年)を始め幾多の傑作アニメーションを手がけることになる月岡貞夫。もうひとりが、『仮面ライダー』・『スーパー戦隊』両シリーズを生むことになる漫画家・石ノ森章太郎……どちらも日本のアニメ・特撮界に遺した功績のはかり知れぬことは周知の通り。驚くなかれ、この二人は手塚が東映動画に残した“置き土産”だったのだ。
好きなアニメを創るための会社・虫プロダクション
 手塚は愛妻に“これからおれはたいへんな事業を始めるので、成功してもしなくても、うちはひどい窮乏生活に見舞われるが、我慢してくれ”と宣言した後、自身のアニメーション制作会社である虫プロダクションこと通称虫プロを創設した。イヤハヤ、ゲゲゲの女房こと水木しげる夫人の武良布枝女史も大変だったが、ラララの女房(?)こと手塚治虫夫人・手塚悦子女史の内助の功も並大抵のものではない。
 それはともかく、この辺りの虫プロ創立から虫プロ初制作……どころか本邦初の本格連続テレビアニメーション『鉄腕アトム』の誕生と、当時の制作状況については『鉄腕アトム』放送開始50周年記念特別番組「漫画の神様、日本テレビアニメ創造史」における先述の白川氏や虫プロアニメーターの第1号で本邦アニメ界の大ベテラン・山本暎一氏らの証言に詳しいので、そちらをご覧頂くとして……国産連続テレビアニメーション第1号『鉄腕アトム』により“テレビ的アニメーションの方法論”及び“マーチャンダイジングによる制作費回収及び利益追求法”の二つが確立された結果、各社がこぞってテレビアニメーションの制作に乗り出し、やがてそれは我が国を代表する“文化”にまで発展していく。
虫プロが、もしもなかったら?
 あくまでも私見にすぎぬし、賛同者も多いとは思うが、筆者的には手塚治虫は“漫画の神様”であると同時に“ジャパ二メーションの神様”でもあると思ってやまない。
 テレビアニメ『鉄腕アトム』の大ヒットを受け、殺到した取材に対し、手塚は皮肉たっぷりにこう応えていた。“(前略)いまに食いあいになって、客のほうがあきちまって、サーッとおしまいになりますよ。先が見えていますね”と。
 実はジャパニメーションの神様、手塚には本当に2013年の今日のアニメ界が見えていたのかもしれない。
※参考文献/手塚治虫著『ぼくはマンガ家』(角川文庫)
【特集コラム第1弾】もうひとりの手塚治虫 〜間黒男(はざま・くろお)ことブラック・ジャック伝〜  はこちら

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放送作品一覧

  • 『W3(ワンダースリー)』
    ©手塚プロダクション・虫プロダクション
    『バンパイヤ』
    ©手塚プロダクション・虫プロダクション
    『どろろ』
    ©手塚プロダクション・虫プロダクション

  • W3(ワンダースリー) セレクト放送 [#1・11]3/3(日)12:00〜
    虫プロが送り出したアトムに続くテレビアニメ第2弾!
    1965年6月6日から1966年6月27日までフジテレビ系列で日曜日19:00枠にて放送。全52話。
    スタッフはチーフディレクターの杉山卓氏、作画監督の中村和子氏、美術監督の伊藤主計氏のメイン3名が東映動画出身のベテランである以外はプロデューサー黒川慶二郎氏を筆頭に大半が1963年春以降入社の新人で占められた。
    それゆえ本作の制作姿勢には1本1本に気迫と実験精神がみなぎり、第4話全編にベートーヴェンの交響組曲「田園」を使用する等、時代に対して早すぎる試みも多かった異色作。 (1965年 全52話)
    悟空の大冒険 セレクト放送 [#1・39]3/3(日)13:00〜
    半世紀早すぎた傑作ギャグアニメ
    フジテレビ系列で1967年1月7日から1967年9月30日まで全39話を放送。
    『鉄腕アトム』(アニメ第1作)の後番組として放映された。提供スポンサーは、『アトム』に引き続き明治製菓一社。
    それまで虫プロが『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』を通じて培ったテレビアニメのノウハウ、カラー放送の利点などを最大限に活かしつつ、それらすべてに反旗を翻したとも言える掟破りの実験作。
    ストーリーの整合性よりも意外性を!ポップアートの最先端を行く美術デザインを!メリハリのある破壊的アクションを!そして優等生不在、欠点だらけで、ひと癖もふた癖もある登場人物たちの姿は、一流声優たちによる名演技と相まって、キャラクターの新たな可能性を切り開いた。 (1967年 全39話)
    バンパイヤ セレクト放送 [#1・2]3/3(日)14:00〜
    日本初アニメと実写合成のテレビシリーズ
    1968年10月3日から1969年3月29日までフジテレビ系列で木曜日19:30枠にて放送。全26話。
    日本初の実写とアニメを合成した連続ドラマ。
    俳優の水谷豊氏のデビュー作であり、初主演作品。原作者・手塚治虫も重要な役どころで出演し水谷豊氏と共演を果たす。印象的なトッペイの変身シーンは撮影フィルムから焼かれた白黒写真に毛並みや変身する部分を描いてアニメのセル画同様にコマ撮りした、CGの先駆けともいえる「エリアル合成」の技術で迫力あるシーンを演出。
    当初虫プロには「エリアル合成」撮影台がなかったため日本大学芸術学部映像科の撮影台を使用。
    そのため大学が開いている時間しか作業が出来なかったという逸話が残っている。(1968年 全26話)
    どろろ セレクト放送 [#1・2]3/3(日)15:00〜
    テレビアニメ史に刻まれた妖怪時代劇の異色作
    1969年4月6日から1969年9月28日までフジテレビ系列で日曜日19:30枠にて放送。全26話。
    放送時間帯とスポンサーの関係により、血の飛び散る殺陣シーンへの配慮などからモノクロで作られた作品。演出に「あしたのジョー」の出崎統氏、「機動戦士ガンダム」の富野由悠季氏、キャラデザインに北野英明氏らそうそうたる顔ぶれで製作されている。
    斬殺シーン、暗くハードな世界観、宿命を背負った戦い…子供たちに背伸びをして見てもらおう作られた作品だが14話以降からテレビ局・スポンサーからの要求により内容改訂が行われ明るく子供向けの作品へ向かった経緯があり、総監督として手腕を揮った杉井ギザブロー氏が降板。
    作画監督の上口照人氏も同時期に製作の「千夜一夜物語」に参加し作業を離れるなど、いわくつきの作品でもある。(1969年 全26話)

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【特集コラム第1弾】もうひとりの手塚治虫 〜間黒男(はざま・くろお)ことブラック・ジャック伝〜

異色の手塚ヒーロー、ブラック・ジャック
神か悪魔か奇跡の手、一人の外科医が巻き起こす命の物語(2004年放送のTVアニメ『ブラック・ジャック』のキャッチコピーより)。
このキャッチ・コピーからも判る通り、ブラック・ジャックは手塚漫画には珍しいアウトサイダーである。一部例外を除いて、それ以前の手塚漫画の主人公たちは、鉄腕アトム、レオ(ジャングル大帝)に代表されるようにいずれも清く正しく美しい健全な存在=正義のヒーローだった。その手塚漫画に初めて登場したダーク・ヒーローがブラック・ジャック、通称BJだった。イメージ的には『バンパイヤ』(66年)の美形悪役・ロック(間久部緑郎)が主人公に転じた感じか。これは手塚なりの劇画へのアプローチとも、当時大ヒットしたTV時代劇『木枯し紋次郎』(72年)の影響があったとも諸説紛々言われているが、手塚先生ご自身が鬼籍に入られた今となっては真相は藪の中である。
ブラック・ジャックは極悪人!?
「『ブラック・ジャック』もね、はじめの2回か3回はもっと悪のつもりだったんです。ところが悪いことに、読者の方から[正義の味方]だっていう評価をしちゃったのね。本当はいい人だって。漫画の主人公なんてのは作家を離れてどんどん変わっちゃうんだよね。特にその作品が受けた場合はね」と後年、自ら“悪いことに”と述懐しているように手塚自身はダーク・ヒーローとしてのブラック・ジャック像を楽しんで執筆していたようだ。その証拠に、当時刊行された単行本(少年チャンピオンコミックス/秋田書店)のカバーには“怪奇コミックス”の文字が躍っていた。それが読者に“本当はいい人”という評価を下されて以降は“ヒューマンコミックス”と表記されるようになる。“怪奇”から“ヒューマン”へ……えらい変わりようといえば変わりようである。だが、皮肉にも“本当はいい人”と読者が思ったことにより『ブラック・ジャック』は漫画家・手塚治虫後期の最大のヒット作となる。
連載40周年記念
ここで簡単に作品自体のスペック=データをご紹介しよう。『ブラック・ジャック』は秋田書店「週刊少年チャンピオン」1973年1月19日号〜1978年9月19日号まで連載、1979年以降は同誌に不定期連載されていた1話完結形式の漫画作品である。手塚が1989年2月9日に逝去したので正式な最終回は描かれず、全244話で未完となった。とはいえ週刊連載時の最終エピソード「人生という名のSL」(第192話)がBJの死を想起させるような内容だったため、読者的にはこれを最終回とする向きも多い。単行本はロング・セラーの少年チャンピオンコミックスをメインに文庫・愛蔵版、手塚治虫漫画全集(講談社)、傑作選、コンビニコミック等々スタイルチェンジを重ねておよそ40年間、絶えることなく刊行され続け、手塚漫画で最も単行本が売れた作品の栄冠に輝いた。昨(2012)年からは、連載40周年を記念して当時の雰囲気をそのまま活かしたB5サイズの全集15巻の刊行もスタートしている(復刊ドットコム・刊)。その間、幾度となくアニメ、映画、ドラマ、ラジオ、舞台化、さらにはベテラン・新進気鋭の作家によるリメイク漫画化もされ、ついにはアメリカでTVドラマ化の企画まで持ち上がっている。手塚先生が生きていたらこの現状をなんと思ったことだろうか?
逆境が生んだ孤高のダーク・ヒーロー
そんな国民的漫画の1作ともいうべき『ブラック・ジャック』は、満を持してでも待望の末でもなく、むしろ“背水の陣”という言葉が似合う状況下で連載がスタートした。有名な話ではあるが簡単に説明すると、1973年、手塚が興したアニメーション制作会社・虫プロダクションが倒産。これについても諸説紛々入り乱れているが、今回、特別番組『漫画の神様は不死鳥の如く蘇る』にて関係者複数の証言を得た結果、手塚が代表を勤めていた虫プロ商事が倒産したことによる連鎖倒産……という見解が正しいようだ。その前には、奇の編集長・内田勝(講談社「週刊少年マガジン」第3代編集長)の奇策により少年漫画誌に“劇画”ブームが到来。各社こぞって青年向け劇画誌を創刊するに至り、その中にあって手塚も『きりひと讃歌』(70年)や『奇(あや)子』(72年)、『ぼるぼら』(73年)等々の作品で果敢に挑むも世間の評価は“手塚治虫は終わった……”という辛辣なもので、手塚自身もこの1960年代後半〜’70年代前半を“冬の時代”と振り返っている。そのような危機的状況下で手塚に最後のチャンスたる『ブラック・ジャック』連載のGOサインを出したのが「週刊少年チャンピオン」二代目編集長の壁村耐三(かべむら・たいぞう)だった。現在その経緯は『ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜』(宮崎克・原作/吉本浩二・漫画/秋田書店・刊)で赤裸々に綴られているが、単に手塚の自伝という範疇を超えて編集者と作家の固い絆、さらには人間が持つ無限の可能性にまで言及されており、一流の人間ドラマとしても読み応え満点だ。
先述の特番『漫画の神様は〜』では、壁村の腹心で当時のBJ担当・岡本三司(おかもと・みつし)氏、『100万年地球の旅 バンダーブック』(78年)から手塚プロに参加したベテラン・清水義裕氏、虫プロ創設時のメンバーで本邦アニメ界の重鎮・山本暎一氏、そして手塚プロダクション社長・松谷孝征氏の証言で具体的にその辺りを掘り下げているので乞うご期待だ。
ブラック・ジャックは手塚治虫自身?
 不発弾の誤爆で全身手術痕だらけ。その際、最愛の母親を失い、父親は愛人と海外へ逃亡。ショックで髪は半分白髪と化し、顔の皮膚の半分はハーフの同級生・タカシが提供。奇跡の生還を遂げた少年・間黒男(はざま・くろお、BJの本名)は医の道を志すことに。天才的な手術技法を身につけるものの医師免許は取れず。だが、彼の技術は世界中に知れ渡り、ひっきりなしに手術の依頼が舞い込む。黒マントを羽織り、法外な手術料を請求する黒男を人はブラック・ジャックと呼んだ……という設定のブラック・ジャックは、逆に医師免許を持ちながら“血に弱い”という理由で医者にはなれなかった手塚の分身ともいえよう。
 満身創痍の身で逆境から不死鳥のごとく蘇り、何度裏切られても人間を愛し、信じ続け、仕事に命を賭けるブラック・ジャックには、虫プロ商事・虫プロ倒産で1億5千万円とも言われる借金を背負いながらも自身の復活を信じ、漫画を描き続けた手塚治虫自身の姿が投影されているのだ。
先に“手塚先生が生きていたら……”との「IF」を書いたが、おそらく先生はこう応えたに違いない。 「尾田栄一郎君には負けませんよ」と。生でそのセリフが聞きたいと思うのは筆者だけだろうか?

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