ファミリー劇場

今や“妖怪”という言葉を知らぬ者はこの国にいないことと思うが、ここまで一般に浸透させたのは、水木しげるという国際的作家に他ならない。

試しに妖怪を「大辞林」でひも解くと、“人の理解を超えた不思議な現象や不気味な物体。想像上の天狗(てんぐ)・一つ目小僧・河童(かっぱ)など。化け物”とある。この語彙から察するに、当初はキャラクターそのものというよりは事象・現象を意味し、且つ天狗や河童といった固有名詞のほうがポピュラーだったと思われる。いわゆる“妖怪”全般を、江戸時代の画家・鳥山石燕(とりやま・せきえん)が「画図百鬼夜行(がずひゃっきやこう[やぎょう])」(1776年)という画集でほぼ初めて図案化、すなわちイラストレーション化した。ここで我が国の妖怪たちは、初めて“姿・形を与えられた”と言っても過言ではないだろう。それ以前にも「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」やそれこそ「日本書記」等々の日本国黎明期の古書にも“妖怪”的語彙や“ものの怪(け)”といった表現で文献に登場したそれはしかし、いずれも文章表現のみの存在だった。あってもせいぜい天狗や河童、鬼等々のある種、メジャーな存在に限られていた。それ以外の、いわゆる“妖怪”と呼ばれるもの全体に目を向け、彼・彼女らに後世、つまり2012年現在の我々が知るヴィジュアルを与えたのはこの鳥山石燕という、約250年前に活躍したアーティストだった(石燕は1712年生まれとの説もあるため、今年はまさに生誕300周年の記念の年ということになる)。

水木は漫画『墓場の鬼太郎』の誕生についてこう述懐している。“(東京・)神田の古書店で、和綴じ本の「画図百鬼夜行」を入手した私はこれを鬼太郎の敵とし、柳田(國男)翁(民俗学者)の「遠野物語」(1910年)、「妖怪談義」(1956年)に登場する妖怪たちを味方とし、世界観を創った”と。おそらく石燕の「画図百鬼夜行」は発表当時、世にそれなりのセンセーショナルを巻き起こしたこととは思うが、テクノロジー・メディア力的問題から現状ほどの拡がりは見せなかった筈だ。水木しげるが石燕の画集に目を付け、それを自身の創作である『墓場(ゲゲゲ)の鬼太郎』の世界観に活かしたことで、妖怪は世界中に知られる存在たり得たことは、我々日本人はもちろん何より当の妖怪たち自身もそう感じているのではなかろうか?

水木はこうも後述している。妖怪は、“実は原水爆以上の脅威ではないか? 自分がそんな危険な存在を取り扱っているにも拘らず、現在の幸福を手に入れられたのは、彼らが自分に感謝してそうしてくれているからではないだろうか? 自分が愛情を以て妖怪たちと接し、彼・彼女らの存在を世に知らしめようとしていることの恩返しのつもりで……”と。なんとも秀逸な考え方ではあるが、それに頷かざるを得ない事実がそこにはある。

そう水木自身が語るように、水木は『ゲゲゲの鬼太郎』で大ヒットを飛ばすまでは貧乏のどん底にいた……と書くと大変失礼なこととは思うが、これまで御大ご自身が公明正大に語られてやまない故、そこは無礼講ということでご容赦して頂こう。

水木しげる、本名・武良茂(むら・しげる)は、1922年3月8日に鳥取県境港市に生を受けた。現在、境港市は“妖怪ロード”として著名だが、それは水木生誕を祝してのもの。その水木はいわゆる傷痍軍人、復員兵である。1943年、夜間中学3年生在学時に招集令状を受けて出征、陸軍二等兵としてラバウル・ニューギニア戦線に従軍し、そこで悲惨且つ過酷極まりない体験を経た後、爆撃で左腕を失う。復員後、貧窮により紙芝居を始め、それで喰い詰めて上京。今度は貸本作家を始める。その最中、互いの両親の強い勧めで、その後、終生連れ添うことになる(と断言)布枝夫人とお見合い結婚。1963年、後に代表作となる『悪魔くん』を貸本の東考社より出版……するも、当初全5巻の予定が、売れ行き不振により全3巻で終了。あまつさえ東考社は返本の山となった。暮らし向きはますます困窮し、水木家は青果店の軒先で安売りされる“熟したバナナ”や野草で糊口をしのぐこともしばしばだったとか。

そんな水木の前に救いの神が現れる。それが講談社「(週刊)少年マガジン」編集長(当時)の内田勝とそのチームだった。1965年、「(別冊少年)マガジン」に発表した漫画『テレビくん』が講談社児童まんが賞を受賞。その後、貸本時代に描いていた『悪魔くん』、『墓場(ゲゲゲ)の鬼太郎』が「マガジン」に、『河童の三平』が「週刊少年サンデー」(小学館)にリメイク連載され、水木は一躍人気漫画家に。国も時も超える大ヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年の初テレビアニメ化以来、約10年毎に5度にわたってテレビ化・放送されている。これも稀有な例といえよう。

貧乏のどん底にいた水木は、長年の漫画及び妖怪文化への功績が称えられ、1991年に紫綬褒章、2003年に旭日小綬章、2007年には『のんのんばあとオレ』でフランスのアングレーム国際漫画祭にて日本人初の最優秀作品賞を受賞し、2010年には文化功労者にも選ばれた。

これは(先述の、妖怪たちのご加護があってのことかもしれないが)水木自身の比類なき才能が評価されてのことに他ならないものの、布枝夫人は『悪魔くん』を始め『ガロ』(青林堂/現在休刊)に掲載された一連の作品を執筆中の水木の真摯な姿勢に心打たれ、いつかこの日のくることを信じてこれまで夫を支え続けてきたという。

その想いが一冊の本に凝縮されたのが『ゲゲゲの女房』(2008年/実業之日本社刊)であり、それをドラマ化したのがNHK朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』(2010年初放送)である。後者はいささかテレビ用の脚色はあるものの、いずれも妻・布枝さんの視点を通しての稀代の作家・水木しげる像が描かれている。今回この、『ゲゲゲの女房』スタートを記念して、内田勝編集長にスポットを当てた特別番組『ゲゲゲを発掘した男〜内田勝が我が水木家にやってきた〜』も放送されるが、こちらでは水木先生ご夫妻が自ら上記について語られているので是非! ご覧頂きたい。同番組には、先生の実弟で長年マネージャーを務められた武良幸雄さんや、内田編集長の下で先生を支え続けた元講談社の田中利雄、小島美香両氏、さらには同じ貸本作家出身にして本邦劇画界の巨星、『ゴルゴ13(サーティーン)』(1968年〜)で有名なさいとう・たかを先生もご出演し、それぞれ貴重な証言をされているので、水木ファン、漫画・劇画ファンならずとも必見だ。

なお、2010年の第27回ユーキャン新語・流行語年間大賞にも選ばれた“ゲゲゲ”はもちろん『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルから採られたものだが、元を質せば水木しげるが幼少時、自分の名前を言えずに“ゲゲる”と言っていたことから自身のあだ名となり、後年作中にて「ゲッ ゲッ ゲゲゲの ゲ〜〜♪」のフレーズにアレンジされて使用された造語に端を発している。
まさに水木先生ご自身を象徴した秀逸な言葉といえるだろう。

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